スポーツに関わる人間として「大きな大会がないなら、スポーツやる価値なんてない」と感じてしまう選手がいることに悲しさを感じています。
「どうして、スポーツをしているの?」
この問いに立ち返ることが大事だと思っています。
スポーツを彼らが言う「そこまでの価値」にしてしまったのはぼくたち大人です。
ぼくたち大人はきみたち選手に対し、
試合に勝てなければ怒り、
他者と比較し続け、
成長する気がないのなら辞めろ
と言ってきた。
もっとも楽しいであろう「試合」は限られた選手にしか機会を与えず、
休息や余白の時間を奪い、
TVではメダルの数ばかりを追いかけている。
スポーツを通じて、
きみたちの土の中に伸び続ける根っこではなく、土の外に綺麗な花を咲かせることばかり考えてきた。
でも、
スポーツってそんな小さなものでないよね。
ぼくたち大人は立ち止まり、
見つめたい。
「どうしてスポーツをするのか?」
誰かに認めてほしくてやってるのか?
試合に勝ちたいからやってるのか?
一緒に喜びをわかちあいたいからやってるのか?
将来の夢のためにやってるのか?
成長を感じたいからやってるのか?
どれも正解だし、間違ってない。
やる気にはいろんな要素があって、どれもが関わり合ってる。
でも、根っこにある気持ちも思いだしてほしい。
「好きだからやってる」
それ以上でも、それ以下でもなくて、
シンプルな気持ち。
まわりから見たら「努力」に見えたり、いろんなことを「我慢」していると見えることでも、努力や我慢だなんて思っていなくて、夢中になって取り組んでいた時期があったはず。
日が暮れるまでボールを追いかけ、
やめなさいと言われても、その言葉は耳に入らず、
夢中になって取り組んでた。
大きな大会がなくたって、
上手じゃなくても、
自分で目標をつくり、新たな発見をして、自ら工夫し、たくさん汗をかいて遊んでいたはず。
そして「好き」がおなじという共通点をもとに、年齢も性別も言語も考え方の違いも越えて一瞬でつながることもできる。
「どうしてスポーツをしているのか?」
大きな大会は目標であって、目的じゃない。
僕たち大人は、
立ち止まり、見つめたい。
新型コロナウイルスの影響でこうした状況になっても、ぼくたち大人がつくってきた「仕組み」と「構造」は再度、おなじようにつくれられ、新たに生まれ変わることはないかもしれません。
自戒と自分の未熟さと今後の活動に活かしていきたいという気持ちを残しておきます。
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